トッピック ツタノハガイ科

 シリーズ3: ツタノハガイ科
 ツタノハガイ科の貝は、潮間帯付近の岩場に着生する皿型の貝です。こんな形でも巻貝で幼生の時には蓋があります。この仲間の分布域は広く、国内のどこの海岸でも見ることが出来ます。 岩場の微小植生を主に夜間に食べますが、日の出までには住み場に戻る、帰家本能を調べた報告書が沢山あります。伊豆諸島では、昔から食用にされ、特に味噌汁に入ると海の香りがただよい大変美味なものです。
 本館で所有展示しているツタノハガイ科は国内産10種、外国産17種の合計27種です
1.ツタノハガイ Patella (Penepatella) flexuosa QUOY & GAIMARD
 伊豆・小笠原諸島の潮間帯やや低部に生息。殻表に海藻類の着生す
る場合が多く、よっぽど注意して観察しないと見つけにくい。著者が採集
した最大の大きさは、八丈島の殻長58.5mmです。この大きさだとオオツ
タノハガイの可能性も考えられますが、40年ほど前の記録で確認出来ま
せんでした(オオツタノハガイの項参照)。
 八丈島・青ケ島の方言では「たばこ」と言いますが、語源は不明です。
2.オオツタノハガイ P. (P.) optima (PILSBRY)
 オオツタノハガイは、平瀬信太郎著「原色日本貝類図鑑」(1954)に薩南諸島諏訪瀬島産の図版が、また波部忠重著「続原色日本貝類図鑑」(1961)では、ツタノハガイに似るが、殻はより大きく、前方へ幅が狭くなる、放射肋は太い、分布は奄美以南と記述されていますが、オオツタノハガイを載せない図鑑も多い。その理由としては、この貝は、前種の大型のものではないか、との意見が根強いことと、標本の入手が難しい種類であることも影響しています。そして、「日本及び周辺地域産軟体動物総目録」(肥後俊一・後藤芳央1993)では、ツタノハガイと同種とされています。
(遺跡からでたオオツタノハガイの貝輪)
 三宅島には縄文時代早期からの遺跡が発見されていますが、弥生時代中期のココマノコシ遺跡(坪田)発掘調査(桜井朝治 1949)では、薄手の土器破片10個、ツタノハ貝(現在坪田村にて採れるものの約4.5倍の大きさのもの)数個、イトマキボラ(巻貝)、魚骨、獣骨らしきものを多数採集したとあります。そして、出土動物種名表では、軟体動物についてオオツタノハガイ、ベッコウザラ、マツバガイ、カモガイ、アマオブネ、クマノコガイ、イボニシ、テツボラ、ホソスジテツボラ、サヤガタイモ、ケイトウガイを報告しています。
 樋口尚武(1988)によれば、八丈島以南を原産地とするオオツタノハガイでつくられた貝輪が、東日本では北は岩手県花泉町貝鳥貝塚から、南は愛知県吉胡貝塚までの31の遺跡から出土しており、オオツタノハガイのもう一つの原産地である種子島以南と区別しています。伊豆諸島でオオツタノハガイの出土はココマノコシ遺跡だけで、原産地に近い他の島々や伊豆半島からの報告がありませんでしたが、ここ数年新島の渡浮根遺跡や大島の下高洞遺跡の出土に加え、下田市火達山遺跡からオオツタノハガイの完形貝輪が出土しました。さらに、樋口は、ツタノハガイの老体がオオツタノハガイではないかと推測し、ココマノコシ遺跡出土のオオツタノハガイの多さから御蔵島やイナンバ島をも生息地として注目しています。
 著者は出土品を見ていませんが、殻の大きさや貝輪の写真からオオツタノハガイと考えられます。出土動物種名表のオオツタノハガイ以外の貝類は、現在でも採集が可能な種類であり、かって生息した、あるいはツタノハガイの老成したものであれば採集の可能性があると調査を行いましたが、伊豆諸島で採集することは出来ませんでした。
 大島町元町の湯の浜海水浴場の南端崖部に位置する縄文時代後期の下高洞遺跡から出土したオオツタノハガイ製の貝輪。(上は裏、左は表)
(鳥島のオオツタノハガイ)
 伊豆諸島の鳥島には、大型のツタノハガイが生息しているとの情報は早くから入手していました。鳥島は八丈島の南300kmにあり、小笠原行きの客船に乗ると、東京竹芝を出航した翌朝、「本船は深夜○時○分に鳥島を通過、現在の気象、船の速力および父島入港は○時○分」の船内放送が流れます。小笠原が日本に復帰した頃(昭和43年6月)は、船も小さく、速力も遅かった関係で、昼間に鳥島を通過しました。この時は、乗客は皆甲板に出て、ちょうど鳥が翼を広げる姿のような島にカメラを向けました。その時、長い汽笛が響きます。この汽笛は、船が遭難し、鳥島にたどりつき救助を待ったジョン万次郎をはじめ遭難者の長い歴史があり、もしも、漂着者がいるならば合図をしろという汽笛であると聞かされましたが、無論、今はこのような時代ではありません。
 鳥島については、アホウドリの繁殖する島としても有名です。アホウドリは海鳥の中でも大型の種類で、両翼の全長が3mにもなります。1869年(明治19年)八丈島の玉置半右衛門一行が移住しアホウドリの羽毛採取に従事、当時100万尾以上いたと言われましたが、毎年15万羽の捕獲を行い、羽毛布団の材料としてアメリカに輸出しました。
 島の南東に面した燕岬の斜面に営巣しているアホウドリ(白い点)
鳥島(東京都水産試験場大島分場提供)
 島の西側にある気象観測所
 その後、明治35年の大噴火もあり、明治39年に保護鳥に指定されましたが、昭和4年の推定生存数2,000羽、昭和54年には105羽しか確認されませんでしたが、現在は保護政策により増加傾向にあります。(詳しくは、東邦大学理学部長谷川博氏のホームページ "アホウドリの復活の軌跡” 参照)
 鳥島は昔も今も、交通の便がなく鳥島産オオツタノハガイを見る機会がありませんでした。
昭和40年代後半、東京都水産試験場大島分場の調査船「みやこ」が、伊豆諸島の重要魚種であるハマトビウオの調査に鳥島近海に出航する機会が増え、1航海は10日ほどで、調査期間中に天候が悪化した時には鳥島に接近し停泊するする機会があることを知り、同乗する研究員に貝の採集を依頼しました。
 1974年4月(武藤光盛)に磯の貝7種類。1976年3月(岡村陽一)オオツタノハガイを含む9種類を採集。初めてオオツタノハガイ(殻長89.0mm、殻幅64.2mm、殻高24.5mm)の標本を検討する機会を得た第1号です。
 ツタノハガイとオオツタノハガイの関係については、オオツタノハガイの産地が限られることなどから、同種か別種かの議論が長年続けられてきましたが、1994年に、鳥島および琉球列島の生貝標本を比較し、形態的・地理的に区別される別種と判断されました(佐々木猛智・草刈正・有馬康文・奥谷喬司)。両種を区別するポイントは次の通りです。
 ツタノハガイとオオツタノハガイは、形態学的には、最大殻長、殻口の形、殻の色彩、軟体部の色彩、歯舌において異なります。
 殻においては、ツタノハガイでは殻長4cmを超える個体は稀ですが、オオツタノハガイでは9cm以上に達します。ツタノハガイは周辺部がツタの葉状に突出していますが、オオツタノハガイは周辺部が突出していません。殻口は、オオツタノハガイではツタノハガイに比べ、前後に長くなる傾向が顕著です。殻が褐色を帯び、内面周辺は褐色に縁取られています。軟体部については、オオツタノハは頭部と足の側面が黒く彩色されていますが、ツタノハガイは一様に黄白色です。歯舌は、特に外側歯の内側から2番目の歯尖の幅が、オオツタノハガイでは広くなっています。
 鳥島以外の産地は、伊豆諸島鳥島、トカラ列島横当島・宝島・諏訪瀬島、大隈諸島口之永良部島・屋久島・竹島と記述されています。
 産地については、前述の水試調査船により、孀婦岩のオオツタノハガイ(1990年)が採集されています。殻長は5-6cmと、鳥島に比べ小型で、殻表の侵食が著しいことが目立つ貝です
鳥島の磯(この写真は東邦大学理学部の長谷川博氏にお願いして撮影してきてもらったものです)
 オオツタノハガイは、波のかぶる低潮位のところに生息し、その殻には海藻やフジツボ、カキなどが付着し周囲の岩礁に溶け込み見つけにくい。左上の写真にはアワビの「なしろ」のような棲息跡がみられる。
孀婦岩
 北緯29度47分39秒、東経141度20分31秒に位置し、鳥島の南76kmにあり、海面から高さ99mも筆のように突き出た岩である。(写真は、八丈島にてダイビングショップ”波太郎”を経営している漁師の山下和秀氏提供による)
(八丈島にオオツタノハガイ)
 著者は伊豆諸島の貝を40年以上観察していますが、オオツタノハガイを採集することは出来ませんでした。
 ところが最近、八丈島からビッグ・ニュースが報じられました。
 南海タイムス(2001.7.27)によると、八丈島産オオツタノハガイ2個体[1999年、八丈小島の鳥打で殻長10cm(採集者:川畑喜照)、ならびに2001年2月、八丈島大潟海岸で殻長9cm(採集者:石井正徳)]の貝殻写真を掲載し、島で生きた貝を見つけた方は連絡するよう呼びかけを行ったところ、新井亨さんが7月28日、大賀郷横間海岸で5cm前後のもの5個体、奥山文則さんが8月10日、八丈小島鳥打で9-10cmのもの5個体、川畑喜照さんが8月14日、鳥打で7cmと8.5cmの2個体を採集。これらの貝は黒住耐二さん(千葉県立中央博物館)に石井正徳さんを通して送られました(南海タイムス 2001.8.24)。
  この標本について、著者は黒住さんからオオツタノハガイである旨の連絡を頂いています。
 なお、八丈小島は二等辺三角形の底辺を海面とするピラミット型の島で、特に落日は八丈島から見ると美しい光景です。島には南と北に宇津木、鳥打の旧村名が残っています。著者は昭和39年に渡島しました。当時の人口は44世帯137人でしたが、41年には22世帯94人に激減、しかも94人にうち31人が小中学生でした。昭和43年10月、全島民の離島決定、44年に離島が終了し以後無人島となりました。
 八丈島の三根地先ナズマドより見た八丈小島




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